senza chan’s diary

日々の思いとカフェインの希求

僕が一日を無駄にしても、それは“誰か”が生きたかった明日などではないんじゃね?

こんにちは。並び替えたら、ち○こには。とか考えるのに脳のリソースを使いすぎると学校や職場で「ち○こには!」って挨拶するようになっちゃうから気をつけるんだゾ〜?笑


こんな言葉をご存知あそばせ給うているだろうか?

「貴方が無駄にした“今日”は、“昨日”死んだ人が生きたかった“明日”なんだよ」

えぇ…知らんそんなの…と思ってしまう人も5億人はいるだろうし、うるせ〜!知らね〜!と思ってしまう人も7億人はいると思うのだがまあちょっと落ち着いてほしい(笑)。この記事ではこの言葉についてちょっと思うところを書き綴っていこうと思う〜!

大前提としてなのだが、僕はこの言葉が正直あまり好きではない。別に誰かに言われたわけではないのだが、この言葉を見るとムズついてしまうのだ。それは何故か?そんなことはもう決まっている。人が過ごした一日を「無駄」呼ばわりとは失礼極まりないからだ。いやホント、何をどうしたら人の一日を「無駄」などと一蹴出来ようか。僕からすれば、人が過ごした一日如きにケチをつける事そのものが無駄である。思うに、過ごした一日が無駄だったかどうかは当人にしか言えない事である。それはそうだ、「誰にとって無駄だったか」という問いの答えは無論、「一日を過ごした本人にとって」だからだ。一日中モンハンをやって過ごしていようが、無駄でないと本人が判断すれば無駄にはならない。そういうもんである。何、そういうもんではない?ちょっと黙って😨

あと、この言葉を語るのは勿論のこと生者である。何を当たり前なことを言っているんだこの馬鹿!と僕に石を投げ散らかしたい気持ちも分かるんだがちょっと待ってほしい(笑)。考えてもみてほしいんだが、この言葉の真意というのは、「一日を無駄にせずに、生きようね!」ということに他ならないと思う。それを伝えるのに「昨日死んだ人」を引き合いに出すのはお門違いもいいとこである。一日でも長く生きたいというのは分かるんだが、他者の一日は他者の一日だ。もし僕が没した時、没した僕を引き合いに出して他者に説教でもされようモンなら、僕は浮かばれないと思う。「僕の死をお主のスピーチに利用するンじゃあないよッ!!ムキー!」と思うんじゃないかな。僕なら。多分。そうでもない?僕が言ってることはズレてる?屋上へ行こうぜ…久しぶりに…キレちまったよ…


ここまで書き綴ってきたが、ちょっと僕自身も何が言いたいのか分からなくなってしまったからこの辺にしておこうと思う。最後に僕から言えるのはそう、

おめぇが過ごした一日は無駄じゃねぇって思えば無駄じゃねぇってこったァな!

キマった…!(感無量)


いやキマってるどころかこの文章は“キメてる”奴が書いたみたいな整合性してる。僕が正気で過ごせる日なんて今後来るんだろうか…?